瞬間(いま)の幸せが生命力を高める。ー岸見一郎『幸福の哲学』
当ブログでは、腸内フローラ・酵素・ミトコンドリアによって生命力を高める方法について述べていますが、今回は『幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智慧』(岸見一郎 著 講談社現代新書)を取り上げながら、瞬間(いま)の幸せが生命力を高める、ということについて述べていこうと思います。
「明日も幸福が持続するかどうかはわからない。どうなるかはわからないとしても、今ここで感じている幸福には意味があるのだ。」(岸見一郎『幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智慧』講談社現代新書)
今よりも幸せになりたいと願う人は多いと思いますし、幸福とは何か、という問いは、これまで多くの哲学者を触発してきました。
近頃、アドラー心理学研究の第一人者であり、ベストセラー『嫌われる勇気』などの著者としても知られている岸見一郎氏の『幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智慧』を読んだのですが、この『幸福の哲学』においては、「幸福」とは「なる」ものではなく、人は「何かの実現を待たなくても、成功しなくても、すでに幸福で<ある>」ということが示されています。
幸福は幸運とは違うということ、人は何かの出来事によって幸福になるのでも、不幸になるのでもないということ。すでに人は今ここで幸福である。このことは、ちょうど人の価値が生産性にではなく、生きていることにあり、今のままの自分以外の何者かにならなくてもいいことに呼応している。
幸福になる、あるいは、なれるというのは、目下、幸福ではないということである。成功や名誉、富などは幸福の条件ではなく、幸福であるためには必要ではない。それがあっても困るわけではないが、何かの実現を待たなくても、成功しなくても、すでに幸福で<ある>のであり、何かが人を幸福にするのではない。反対に、何かの出来事が人を不幸にするのではない。不幸の条件もないのである。
(同 p224)
したがって、大事なのは、どこか遠くに幸福を探しに出かけたり、ふいに幸運が訪れることを期待したりすることでもなく、生きていること自体がすでに「幸福」である、と気づくことだと思われます。
すなわち、幸福な生き方とは、過去や未来に思いを巡らすことではなく、瞬間(いま)を生きることなのです。
また、そのためには、学校や会社での自分に対する評判やSNSの「いいね!」の数など、他人による評価を気にせず、自分らしく生きることも必要になってくるのです。
なぜなら、他人に自分はどう思われているかといったようなことが気になっている限り、今ここにいるありのまま自分の(お金とは関係ない)価値に気づくことが出来ないため、幸福な生き方を実現するのは難しいように思われるからです。
岸見一郎氏はこのことに関して、
「すでに人は今ここで幸福である。このことは、ちょうど人の価値が生産性にではなく、生きていることにあり、今のままの自分以外の何者かにならなくてもいいことに呼応している。」
と述べていますが、現代社会において良い事とされる、お金持ちになるという「成功」や、SNSの「いいね!」の数ばかりに気をとられてしまうと、今ここにある幸福は遠ざかっていってしまうように思います。
どう思われるかを気にしていると、行動の自由を制限される。自分が何をしたいということよりも、人に認められることの方が重要なので、何かをするか、しないかを自分では決められなくなる。他者が自分の行動の決定権を持つことになるのである。
人が自分に対して行う評価と自分の本質にはまったく関係がない。多くの人が共通した評価を自分に下すというようなことがあった場合には、その評価をまったく無視していいというわけではないが、そういうことでなければ、他者の自分についての評価に一喜一憂する必要はない。
他者の評価によって自分の本質が決まるわけではなく、自分の価値が上下するわけでもない。だから「いやな人ね」といわれても落ち込むことはないし、「いい人ね」といわれたからといって舞い上がるのもおかしい。それらはある人の評価でしかなく、その評価によって自分の価値が決まるわけではないからだ。
つまり、無理に他人からの評価を求めたり、強迫的に社会での成功を目指したりしなくても、今ここにいる自分には、他人による評価やお金とは関係ない、本質的な価値があるのです。
もちろん、実際のところ、そうはいってもやはり他人の視線や評価が気になってしまうという方は多くいらっしゃると思います。
その場合は、たとえば1分間でも良いので、呼吸を深めながらマインドフルネス瞑想を行い、意識を過去や未来ではなく「今・ここ」に集中させ、すでにここにある「幸福」に気づく訓練をしてみてください。
実は、そのような習慣をもつことが、瞬間(いま)の幸せを感じるとともに、生命力を高めるコツでもあるのです。
嫌われることも含めて、他者の評価を恐れず、他者の評価から自由にならなければならない。誰も嫌われたくはないが、もしまわりに自分を嫌う人がいるとすれば、嫌われることは自分が自由に生きていることの証であり、自由に生きるために支払わなければならない代償であると考えなければならない。